自分がいる意味 [お仕事関連(教育)]
塾での仕事をするようになってから、だいたい3ヶ月になろうとしている。
私は、他の先生と比べて、授業もうまくないし、学力もあるわけでもない。
もちろん、そこをカバーできるように、授業の準備はしっかりとし、できるだけ、いまもっている子どもたちに、理解しやすいように授業を行えるように努力はしているつもりだ。
しかし、そんな低スペックである私が、なぜ塾に勤めることができるようになったのか、その意味を考えている。
はっきり言うと、高学年、たとえば中学生や高校生の学習内容は、多少は理解できるが、指導できるほどのレベルではない。
塾では、子どもの学力を伸ばすことが至上命題とされている。
やる気のある子どもも来校しているし、テストの結果や試験で高得点をとり、志望校に合格させることが、塾の使命だということもわかっている。
しかし、いくらやる気があるからといっても、どうしても学習内容についていけなくなる子もなかには存在する。
宿題だけで精いっぱいの子や、授業内容が難しすぎて理解できない子も存在するのだ。
最初に書いたが、私もそこまで学力は高くない。
しかし、行き詰まっている子と話をしたり、ついて行けない子のサポートをしたりすることはできるだろう。
他の先生方は、ひたすら叱る。いや、叱るというより怒る。
だが私は、ほとんど怒らない。
ついて行けない子は、その子なりにがんばっていることを知っているからだ。
感情的になっても、なにも生まないこともいままでの経験で知っている。
教える者は、感情的になってはいけないというのが、私の教育観のひとつだ。
もちろん、宿題を忘れた(やってない)とか、試験で不正をしたなどの場合は、指導する。
だが、指導するのと、怒るのは全く違うものだ。
頭ごなしに怒鳴りつけるのも、違和感がある。
怒鳴りつけるのは、先生のエゴであり、ただのストレス発散でしかないと私は思う。
感情的になってしまうと、指導はできない。
甘いだろうか。おそらく他の塾関係者から見れば、甘いと思われているだろう。
そんな私がなぜ塾にいるのだろうか。
考えてもそうわかるものではないが、自分で思うのは、ついて行けなくなった子へのフォロー役なのではないだろうか、ということだ。
いま、個別学習で、前任の先生と合わなかった子の指導をさせてもらっている。
何気ない会話を授業中にはさんで、その子のパーソナリティを観察したりもしている。
どの子も、しっかりみてあげれば、必ずいいところがある。
もちろん、報告書では、良かったところを中心に書く。文章は残るものなので、マイナスのことを書いても仕方がない。
マイナスのところは、自分や責任者、他の先生方と共有して、普段の指導の中で改善させてあげればいいだけの話である。
それに、人間、悪いところはよく見えるものだが、いいところはしっかり見ないとわからないものだ。
そのような、いいところを見つけ、伸ばし、他の先生にも認めてもらうような仕事をしていきたい。
このごろはそう思うようになった。
私のいる意味、未だに明確な答えは出せないでいるが、塾に来ているすべての子が、納得できる、そんな学校にしていく力になっていきたいと願うばかりである。
私は、他の先生と比べて、授業もうまくないし、学力もあるわけでもない。
もちろん、そこをカバーできるように、授業の準備はしっかりとし、できるだけ、いまもっている子どもたちに、理解しやすいように授業を行えるように努力はしているつもりだ。
しかし、そんな低スペックである私が、なぜ塾に勤めることができるようになったのか、その意味を考えている。
はっきり言うと、高学年、たとえば中学生や高校生の学習内容は、多少は理解できるが、指導できるほどのレベルではない。
塾では、子どもの学力を伸ばすことが至上命題とされている。
やる気のある子どもも来校しているし、テストの結果や試験で高得点をとり、志望校に合格させることが、塾の使命だということもわかっている。
しかし、いくらやる気があるからといっても、どうしても学習内容についていけなくなる子もなかには存在する。
宿題だけで精いっぱいの子や、授業内容が難しすぎて理解できない子も存在するのだ。
最初に書いたが、私もそこまで学力は高くない。
しかし、行き詰まっている子と話をしたり、ついて行けない子のサポートをしたりすることはできるだろう。
他の先生方は、ひたすら叱る。いや、叱るというより怒る。
だが私は、ほとんど怒らない。
ついて行けない子は、その子なりにがんばっていることを知っているからだ。
感情的になっても、なにも生まないこともいままでの経験で知っている。
教える者は、感情的になってはいけないというのが、私の教育観のひとつだ。
もちろん、宿題を忘れた(やってない)とか、試験で不正をしたなどの場合は、指導する。
だが、指導するのと、怒るのは全く違うものだ。
頭ごなしに怒鳴りつけるのも、違和感がある。
怒鳴りつけるのは、先生のエゴであり、ただのストレス発散でしかないと私は思う。
感情的になってしまうと、指導はできない。
甘いだろうか。おそらく他の塾関係者から見れば、甘いと思われているだろう。
そんな私がなぜ塾にいるのだろうか。
考えてもそうわかるものではないが、自分で思うのは、ついて行けなくなった子へのフォロー役なのではないだろうか、ということだ。
いま、個別学習で、前任の先生と合わなかった子の指導をさせてもらっている。
何気ない会話を授業中にはさんで、その子のパーソナリティを観察したりもしている。
どの子も、しっかりみてあげれば、必ずいいところがある。
もちろん、報告書では、良かったところを中心に書く。文章は残るものなので、マイナスのことを書いても仕方がない。
マイナスのところは、自分や責任者、他の先生方と共有して、普段の指導の中で改善させてあげればいいだけの話である。
それに、人間、悪いところはよく見えるものだが、いいところはしっかり見ないとわからないものだ。
そのような、いいところを見つけ、伸ばし、他の先生にも認めてもらうような仕事をしていきたい。
このごろはそう思うようになった。
私のいる意味、未だに明確な答えは出せないでいるが、塾に来ているすべての子が、納得できる、そんな学校にしていく力になっていきたいと願うばかりである。
タグ:教育
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